夏秋徒然草 37 プライスコレクション・若冲
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10年前ある企業から掛軸仕立ての依頼がありました。あるアメリカのコレクターの持っている絵画をデジタル化したので、掛軸にしてもらえないかというものでした。洋紙に原寸でプリントされたもので、とってもやりにくかったのですが、納めることが出来ました。 けさ京都国立近代美術館でその原画、伊藤若冲筆「紫陽花双鶏図」(左の絵)と対面できて、感激ひとしおでした。 10年の年月はデジタル化ももっと進み、プリント技術も進んでいるでしょうが、掛軸は昔も今も変わらない技術で造られています。 これからはもっと本物に近い複製が造られるでしょうが、やはりほんものにはなれないでしょうね。 なお私の仕立てた掛軸(右の掛軸)はプライスさんの元に行ったそうです。(06.10.9) |
夏秋徒然草 36 雅尚堂・小林弘二作品
30代、本格的に表具を始めた私は、何人かの方に教えて頂いたが、特に親切に指導いただいたのが 神田淡路町の雅尚堂・小林弘二さん、お会いできるきっかけを作って頂いたのが、天皇陛下に書道を進講された故桑原翠邦先生です。このたび桑原先生生誕100年を記念して、師匠の小林さんが表装展を5月にされましたが、寄せてもらえませんでした。ここに桑原先生の書を掛軸にされた作品集を紹介します。
小林さんの掛軸については、1982年に綜芸舎から「掛軸の作り方」としてまとめましたが、装丁が難しいので再版ができないでいます。
さてその特徴は京表具のむっくりしてはんなりとした仕上がりに対し、江戸表具のぱしっとした粋な仕上がりが特徴です。
近年はデザインの凝った掛軸を作られますが、特に翠邦先生とコラボレーションされた掛軸はなにか江戸下町のデザインが感じられ独特の世界が醸し出されています。
そして写真ように、できあがった掛軸に、直接翠邦先生が書を書かれます。その書は大先生に失礼だとは思いますが、とっても洒脱で掛軸に合っています。(2006.8.13)
「桑原翠邦生誕百年記念」(A4版 64頁 2500円 税・送料別途)をお求めになりたい方はご連絡ください。
夏秋徒然草 35 高松塚古墳壁画損傷
6月19日文化庁は高松塚損傷についてトップの4人の処分を発表しました。この方たちは現在も学会や美術界のトップにおられる方たちです。
これで一件落着したことになるのでしょうね。
高松塚古墳は1972年末永雅雄先生(私の恩師)によって作られた橿原考古学研究所の網干善教先生(こちらにもずいぶんお世話になりました)によって発見された日本屈指の壁画古墳、当時分解して別のところで保存するか、密閉するかで論議がありましたが、文化庁は密閉して保存しました。その後33年結果は明らかです。保存は大失敗でした。
愚かな人々が、いっぱいカビを入れたり、傷つけたり、おまけに隠してしまったのです。
私は掛軸や額、屏風の修復を頼まれます。中にはうまくゆかず、途中で中止して、どうしたらよいか悩みます。寝られないこともあります。
個人から預かった作品でも、大変な努力して元の姿に戻そうと頑張っています。多くの修復家も多分そうだと思います。
それなのに国の宝を痛めておいて、実際の当事者や上司は今どう思っていられるのでしょうか。ちょっと厳しい意見となりましたが、文化財を愛するが故の苦言となりました。写真は黒カビの出た壁画(2006.6.20)
夏秋徒然草 34 障壁画 木村英輝の世界
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日本にロックを伝えた男(プロデュサー)として、音楽分野で有名な木村英輝さんが、還暦を境に、絵筆を取って障壁画家になりました。枠に入った絵が嫌い、画廊で個展するのが嫌いな彼の描く絵は確かに天井まで届く巨大な象であったり、犀であったりします。 その彼が青蓮院の襖に蓮を描いたことは2005年の8月に紹介しました。 ことし彼の画業をまとめた「生きる儘」(自然の成りゆき)が淡交社から出版され、その才能にまたまた感嘆しております。 さてその本の巻頭にある「鼎談」がとっても示唆に富む話がされていますので一端を紹介します。()内は私話。 一、青蓮院の襖絵にはアクリルガッシュのウルトラマリンが使われているが、日本画の群青を使ったら5000万円かかる、着物も本絹、本金にこだわるから高価になりすぎて現代に結びつきにくくなった。絵そのものが物まねでも、絵の具が天然であれば「本物」としてきたのが日本の美術であった。(掛軸も本絹本金使ったらべらぼうな値段になります) 二、美術の鑑賞の仕方は西洋と日本ではまったく違う。西洋は立って鑑賞する。そのため絵を掛ける高さは145〜155cmに中心を持ってくる。(襖や屏風、掛軸までそのようにして展示してしまいます)。 日本は座って見る。座れば判るが、畳を通して襖に繋がり、そして庭という空間まで広がる。 (床の間はほとんど窓の傍にあります。障子が開けてあれば庭が。閉めてあれば木々の影が映ります。そういう空間に掛かる掛軸を鑑賞する。それが本来の日本の美術鑑賞だったのです)。などなど。(内容に理解が足りない面やいい足らずな面があると思いますがご容赦ください。詳しくは本をお読みください) 鼎談者:木村英輝さんと伊東順二さん(長崎県美術館館長)と坂井直樹さん(著名なコンセプター) なお本書の出版記念パーティーが京大西部講堂で過日行われました。ブログをご覧ください。http://d.hatena.ne.jp/kinrandonsu/ 写真上:THE RIVER ORIENTAL 京都木屋町 壁画 写真中:青蓮院 京都東山 襖 写真下:亀屋伊織 京都中京 風呂先(アクリル) 光が通ると模様が畳に映ります。 |
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夏秋徒然草 33 横披 掛けられた巻物
文字が生まれた中国では記録は甲骨、金石から竹、木簡に書かれると巻かれて保存されます。素材が紙や絹になると、字以外に絵も描かれていきます。字は開きながら読み、巻き戻せばいいわけですが、絵は全体を見るわけですから開いたままです。書と絵の混じった絵巻物という形式も出来ますがそれは少数で、普通は絵のみで鑑賞します。また字も鑑賞する「書」になるとビジュアルとしてみるわけですから一目で見ようとします。石碑から発達した書はその形を踏襲して縦長になって、掛軸という形態で鑑賞されます。絵もそれに引きずられ、縦長の山水画が生まれてきます。でも中には横に長く書いた書や、絵もあったはずで、それを飾る形が横披(おうひ)といわれる、横長巻物風掛軸でした。
ところがこれが日本にないのです。日本の室内は壁が少なく、掛軸は床の間という狭い空間に掛けるようになりますと、横長の設置場所がとれなくて伝わりませんでした。それでどうしたかというと、扁額という形で、扉(障子や襖)のの空間を利用したわけです。
この幻の横披を20年前早稲大学の会津八一記念館で見て以来何時か作ってみようと思っていました。たまたま大阪の朝日カルチャーセンターの受講生が横長に書いた書作品をj軸に作りたいといわれて、それをきっかけに20年前の記憶を元に、その人の作品と私の持つ画像石拓本を作ってみました。古代中国のものとは違うかも判りませんが、壁に掛けることができました。(2006年3月「洗山・夏秋展」で展示)2006.4.12
夏秋徒然草 32 キトラ古墳の戌
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| 戌の年で2年前の戌を思い出しました。それは2004年8月 明日香村阿部山のキトラ古墳(7世紀末〜8世紀初め)で文化庁は4日、西壁に描かれた獣頭人身の「戌(いぬ)」を壁面からはぎ取りに成功、非破壊を基本方針としてきた同古墳の壁画が初めて石室外に持ち出されたことです。 このキトラ古墳や高松塚古墳で活躍しているのがレーヨン紙であります。キトラ古墳の戌の剥がしでは、戌の表面をレーヨン紙で補強、レーヨン紙の上にガーゼとプラスチック板を張ってはぎ取りました。 石室外に出した「戌」はレーヨン紙で裏打ちした後、エタノールを使って表打ちをはがしたそうです。 (2004.8.5 奈良新聞より抜粋) 現在我が工房の修復から裏打まで活躍している養生紙=レーヨン紙は上記のように文化財修復には無くてはならないものになりました。初期からこのレーヨン紙に注目して、教室でも使用してきたことが正解だったと喜んでおります。 さてキトラ古墳の全体像はわかりかねますが、韓国の古代古墳を守る十二支と同様の役割をもって描かれたことは間違いなく、姿も韓国の拓本と同様のものだったと思われます。(2006.2.1) |
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夏秋徒然草 31 角屋と青貝の床の間

京都角屋は京都駅の真西、千本七条上がる島原にあります。地図的には東本願寺、西本願寺、島原と並びます。
秀吉によって花街が出来たのは天正17年(1589)二条の柳馬場だといわれています。その後何回かの移転で現地に落ちつきました寛永18年(1641)、時あたかも島原の乱、急な移転を引っ掛けて島原と呼称したそうです。
遊郭には揚屋と置屋がありますが、置屋(輪違屋が現存)は芸妓を抱えて、座敷に送り出す人材派遣会社で、揚屋は料亭として客をもてなす場所、クラブやレストランだったのです。角屋は1600年当初から続く由緒正しい重要文化財に指定されている建物です。
江戸文化の粋といわれた吉原は跡形もありませんが、京都の島原は今も太夫ともども連綿と続いています。
さてその江戸時代の文化がぎゅっと詰まった全て、特に表具に関係のある床の間や障子や襖、壁にいたるまで素晴らしいものですが、今回はその中でも一押しの床の間を紹介します。
利休の侘びさびとは対極のこの青貝の床の間を始めて見たときの衝撃は凄い物でした。床の間そのものが掛軸の表紙なのです。それもインド更紗ににた唐草模様、ここには作品だけ掛ければどんなに素晴らしいかと思いました。全体が煤で汚れていますので、建設当時はどんな色だったのでしょうか。なおこの壁、現在の技術では再建できないそうです。中央の床柱、新撰組が刀傷をつけたそうですが、壁に傷がつかなくて良かったです。天井は蒲筵、障子にはギヤマンがはめ込まれていて、外が歪んで見えます。その外には露台(バルコニー)、南方系のインテリア、エキステリアになっています。それ以外の部屋が、王朝風や江戸風なのでとってもエキセントリックな部屋です。(「資料「角屋案内記」中川徳右衛門著・長松株式会社発行)(2006.1.1)
夏秋徒然草 30 刷師
浮世絵はもちろん版画の範疇に入ります。江戸期の版画は絵師、彫師、摺師が一つの絵を完成させます。20数板に彫られた木(主に桜)にそれぞれの色を摺り込みますが、同じ版でも濃淡をつけて重ね摺りをすると200回にもわたって摺り込むわけです。それを色ずれ起こさないように寸分たがわず摺る枚数が何百枚となると、気が遠くなります。写真は知人の摺師の工房、座布団に座り、ちょっと向こうに傾斜した摺台で摺っていきます。必要なものは手を伸ばすだけで取れるように周りに置いてあります。
工房では主人と弟子3人が、朝から晩までもくもくと摺っていく姿はこれぞ職人!先日若き現代版画家を連れて行きましたが、見終わって工房を出たとたん感激で泣いてしまいました。表具もそうですが伝統工芸の世界、もっと多くの人に紹介して、理解され、伝わればと思いました。
最後に気になったのは、版画のもと、板を作る板師が東京、京都とも相次いで亡くなり、良い板が無くなりかけているということです。
板師の削る板は、けしてまねできないと言われています。大工や指物師が挑戦したのですが、見た目は素晴らしくツルツルに削られていても、一端水につけると、かすかですが凹凸が出てしまうそうです。美人画の女性の髪を見ても判るように、1センチに何十本もの線を入れるには、木がよっぽど良くなければなりません。いろいろな技術がある日フッと消えてしまう・・・何とかしたいものです。(2005.12.1)
夏秋徒然草 29 二美人図
山田敬之の肉筆浮世絵はホテルニューオータニの中にある美術館所蔵で、創業者の大谷米太郎の蒐集といわれています。ここに紹介したのは、掛軸を掛けるという珍しいシーンだったからです。絵から遊郭の居間なのでしょう、花魁が指図をしながら朋輩に掛けさせています。床の間には色紙、短冊が置かれて、机には漢籍か物語本が帙に入って置かれています。花魁は読書中と見えて和本が紐解かれています。国民の多くが識字出来なかった時代、書を読み、字を書き、歌を読み、美術に造詣が深かった、遊郭の花魁の姿を垣間見ることが出来ます。
掛軸は詩画軸と恩われ、随分派手な大和仕立に仕立てられています。風袋が反っているのはちょっと気になります。矢はずを使ってかけているのも面白いです。時代がはっきりしないのは残念です。
遊郭は一種の文化サロンでもありました。武士、町人わけ隔てなく入れたことはある面凄い平等ですね。
以前京都の七条にある角屋に参りましたが、贅を尽くした部屋部屋、当時としてはモダンインテリアの最先端だったのでしょうね。当時が偲ばれます。(2005.11.01)
夏秋徒然草 28 暁斎
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| 河鍋暁斎は天保2年(1831)下総の国古河(千葉県)に生まれ明治22年(1889)59歳で亡くなりました。7歳のとき歌川国芳の門に入り、10歳のとき狩野派の前村洞和、その師の洞白に学びましたが、狩野派の画風におさまらず、「狂斎」と称し、浮世絵、戯画、額絵、行灯絵等、なんでもこなし、その画風領域を広げました。明治3年、狂画をとがめられて拘留され、以後、画号を暁斎と改名。その活動期は最晩年に及び、美人花鳥山水道釈等、浮世絵から狩野画風まで幅広く多数の絵を残しました。歌川国芳とともに日本近代絵画に多くの影響を与えた天才画家といえます。 さてこの絵は「一寸みなんしことしの新ぱん」と題された慶応三年(1867)の大判錦絵と呼ばれているものです。内容は高いもの尽くしで山は浅間山、天狗の鼻、行者の高下駄などが見る中で日本一高い富士山の張子を作っている絵、糊をつけ、紙をもって、口には刷毛をくわえている職人たちは、表具師に他ならない、顔は目鼻が無く、紙や茶、米と書かれています。一番てっぺんには物価の高い米や茶、裾のほうには安い玉子など、糊を練っているのはなんと給金、今のように当時も物価高に悩ませれていたのですね。この年坂本龍馬暗殺され、明治維新へと突っ込んでいたまさにその時代を描いた素晴らしい風刺画です。今の画家は花鳥風月や裸婦を描いてばっかし、暁斎を見習ってくれませんか。(財)河鍋暁斎記念美術館蔵。「国芳暁斎なんでもこいッ展だイ!」図録より。(2005.9.1) |
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夏秋徒然草 27 青蓮院襖絵
京都東山の青蓮院は門跡寺院で、特に国宝の青不動で有名ですが、普段は楠の大木の奥の静かな寺院です。このお寺の白書院に今年一月、描かれたのが「青の幻想」と名づけられた襖絵です。庭に面した部屋には青蓮院にちなんだ青の蓮を描いた「青の幻想」、中の部屋(写真)は「生命賛歌」と名づけられ、トンボや蟹、蛙が戯れるえんじの蓮が描かれ、北の座敷は「極楽浄土」で蓮の間から赤や黄色の花が咲き乱れています。とっても現代的な作品です。しかし数百年のお寺の雰囲気を壊してはいません。アクリルでかかれた絵は日本画と違ったイメージを与えてくれます。新しい絵の具で描いた古寺、特に由緒ある門跡寺院の襖は例がないでしょう。これを描かれた木村英輝さんは京都市立美大図案科卒業ではありますが、60年代に日本最初のロックコンサートを開いたプロデューサーとして有名となり、その後60歳を目の前に、再び絵筆をとって、京都のあちこちに壁画を書き始められた異才の画家です。木村さんの奥様が私の表装教室に来ておられる縁で、紹介いたしました。等伯にしても宗達にしても、最初描かれた時、多分みんな目を瞠って観たに違いありません。ナンやこの絵はと思った人もいたでしょう。この絵のように。古いものを残すことも大切ですが、古いものに新しい息吹を与えることも時としては必要です。京都人はそれが上手な人種といえないでしょうか。私もそれを目指して頑張りたいと思います。(2005.8.1)
夏秋徒然草 26 新古糊
4月山陽新聞の記事で、新しい古糊の開発が成功したとのこと、驚きました。表装の糊に関する論文を多数発表しておられる東京文化財研究所の早川典子研究員が中心となり、岡山の薬品開発企業で、林原美術館も運営する林原グループとの共同開発ということです。文化財修復を手がける京都の表具師が太鼓判を押したとのこと。バイオの力での製品化ということで、伝統技術と現代科学が結びついた成果です。いままで季節や、炊き方、保存の仕方で品質が揃わなかった古糊が、誰にでも手軽に使える事は表装界の画期的な転換ではないでしょうか。林原に問合せしたところ製品化は1年後ということ期待大です。(2005.7.1)
シニアになったおじさんが悪戦苦闘の末、やっとホームページを立ち上げました。 若いときから物を作るのが大好き人間でしたから、ホームページも物作りと思っ て何とか出来た次第です。自分の作品や頼まれた作品を表装するかたわら、東京 や大阪を中心に多くの人に掛軸や屏風の作り方を教えています。消えかけようと している技術を何とか残したく頑張っています。ご意見ご感想のメールお待ちし ています。次回から表装の話いろいろしていきます。(2005.7.7)
夏秋徒然草 25 牛車
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indexのイラストと比べてください。これがほんとの牛車、ぎっしゃと読みます。京都御所を背景に平安時代にタイムスリップです。この牛車は勅使用で華やかさも極上。さて車輪に注目、クヌギの木でつくられた2mをこす大車輪、使用しないときは川に浸けてあったといわれています。そうしないと乾燥でひび割れて使えなくなったようです。後世その様子をデザイン化したのが水車、車輪そのものを模様にしたのが源氏車、着物や表具の裂に使われました。なんとモダン!(2005.6.9) | |
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夏秋徒然草 24 葵祭・競馬
皐月五月十五日は葵祭です。京都市の北、上賀茂神社の祭礼で、六世紀に始まり、葵の蔓を人や馬につけたところから別名葵祭と呼ばれ、京三大祭の一つです。平安時代には祭りといえばこれをさし、源氏物語の車争いの場面はあまりにも有名です。それに先立つ五日には競馬会(くらべうまえ)の神事が行われました。
兼好法師の徒然草41段には「五月五日賀茂の競馬を見侍りしに、車の前に雜人たち隔てて見えざりしかば、各おりて埒〔馬場の柵〕の際によりたれど、殊に人多く立ちこみて、分け入りぬべき様もなし。・・・」とあり、夏秋徒然草としたは見なければということで柵によりて撮りし写真です。赤の舞楽衣装の騎手が先頭を走って後を黒衣装の馬が追いかけるというきまりだったのですが、なんとスタートで赤が暴れて遅れてしまいました。追いかける赤の形相ものすごくという場面撮れました。デジタルカメラのタイムラグのため次のシャッターでは通り過ぎていました。古代の競馬面白いですね。ちなみに馬は中央競馬会ですが。賭けは出来ません。ついでですが私の辺りは上御霊神社の区域で葵祭りから3日後の18日祭礼が行われ、神輿や牛車が家の前を巡行します。(2005.5.11)
夏秋徒然草 23 南方録
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茶道のバイブルといわれるものに「南方録」があります。元祖千利休の直伝を弟子の宗啓が書写し、それぞれの奥書に利休自らが判を押したといわれるものを、江戸時代初期 福岡藩立花実山が書写したもの。内容は七巻にわかれ、茶道について多義にわたり詳細に書かれています。その巻一に、掛軸についての記述があります。 「掛物ほど第一の道具はなし。客・亭主ともに茶の湯三昧の一心得道の物なり。・・・」茶道にあっては掛軸が最も重要なものですよと説いているのです。また「名物のかけ物所持の輩は、床の心得あり。横物にて上下つまりたらば床の天井を下げ、竪物にてあまるほどならば天井をあげてよし。」と述べています。これは所持している書画が素晴らしいものであったら、床の間の構造を変えてでも掛けるようにと言っているのです。別のものを掛けたとき見苦しくなっても気にするなとも言っています。利休の美や精神に対する思い入れを感じます。現在展覧会場では掛けられないから、上下を切り詰めて、寸詰まりの軸を良く見かけます。バランスの悪い掛軸を利休が見たら嘆くでしょうね。展覧会場ももう少し天井を上げて造ってほしいものです。 写真は30年ぶりに拝観した金閣寺の茶室です。きらきら光る金閣の傍らに、侘びさびの真髄といってよい茶室が佇む姿を、若者や外国の人が見て日本の文化の一端を感じ取ってくれたらと思います。正月の金閣寺は韓国語や中国語が飛び交っていました。(2005.2.20) 前号の訂正:堀木エリ子&アソシエイツからメールを戴きました。「Comments」をご覧ください。 |
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夏秋徒然草 22 唐紙と壁紙
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昨年暮れも押し詰まった12月、フィンランドから版画家で造本家で紙漉きをするエリヤさんがやってきました。フィンランドで拓本と表装を教えたとき、お世話になったので、お返しに彼女にとって最も興味があるであろうと思われた二つの工房にお連れしました。まず北白川修学院近くの「唐長」、ここには20年ほどまえ一度寄せてもらったのですが、そのときと同じように道に迷いました。「唐長」は唐紙(もともと料紙として表紙や本紙を飾っていた中国渡来の紙が日本に定着して、襖や壁紙になった装飾紙)を作って350年、11代続く老舗です。650枚残る版木は天明の大火(1788)以降のものですが、それでも作業台にのっている版木には200年前の年号が入っています。文化財に指定されると自由に摺れないので申請されていないそうです。エリヤさんは随分前に唐長の出したCDをパリで買っていてとっても喜んでいました。写真の左の青年は千田家の次男、エリヤさん、私です。一階のお店には若い女の子が沢山ハガキやコースターといった和の小物をもとめていました。(つい最近京のど真ん中のビルにショールームがオープンしています)。 次の日は和紙の作家、堀木エリ子さんの事務所に伺いました。こちらも15年ほどまえ、京都の真ん中の呉服屋さんのビルの上にあったSHIMUS時代に寄せてもらってから、京の西方、太秦に移られてから初めての訪問でやっぱり道に迷いました。京都は私の住む上京や中京はきちっと碁盤の目になっていますが、左京や右京は入り組んでいて大変です。堀木さんについては一昨年日経から「ウーマン・オブ・ザ・イヤー賞」(日経ホーム社出版「日経ウーマン」)に選ばれている方ですからご存知の方もあると思いますが、和紙を漉く方の中ではもっともポジティブに活動され、漉かれる紙は紙という常識を超えた作品となっています。今回はその作品群をライトを自在に当てながら見せていただきました。見終わったときエリヤさんと私はため息が出てしまいました。(彼女と三日間会いましたので、夢にまで英語が渦巻いていました)。堀木エリ子さんの作品は成田空港や細見美術館などにありますのでご覧ください。 350年前の伝統を守ってデザインも技術もその当時のままの唐長の唐紙の温かみと、和紙の可能性を求めて進化続ける堀木さんの紙のクールさ、エリヤさんはとっても気に入って帰国されました。最後に東寺の骨董市でのお買い物。(2005.1.1) |
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「おさん茂平」の続きでなんですが、第二段、「さぶ」、これは山本周五郎が昭和38年発表した作品で茂平と同じ表具屋の話です。舞台は江戸中期の何時のころか、江戸の街ん中、小舟町の表具師「芳古堂」を舞台に友情で固く結ばれた二人の奉公人の物語です。二十歳になって糊の仕込しか出来ないさぶと襖のした張りができる栄二、その栄二が「古代箔白地金襴」の切を大店から盗んだ無実の容疑で石川島に囚われの身となる。その英二の成長とさぶとの友情を描いています。興味があれば読んでいただくこととして、ここで取り上げたいのは作者の並々ならぬ知識です。江戸時代の表具屋の世界がかくありなんと思われる描写は、今もかすかに残っている京都の表具屋を彷彿とさせます。糊の作り方など若干違いますが、とってもよく表具の世界が描かれている秀作です。なかでも表具師は読み書きから古典の素養、骨董に対する知識もいるという言葉には納得するとともにいまだ修行中の身であることを思い知らされました。40年前の新潮文庫で読みましたが、今でも出ているのでしょうね。映画には1964年小林旭主演で作られ、最近では藤原竜二、妻夫木聡で上映されています。これは高倉健でしてほしかったな。なぜか演劇にはもてて20本以上作られています。いつか観たいものです。(04/11/05)
衛星放送がいつから始まったかは定かではありませんが、初期のころビデオに撮っておいたものを最近DVDに焼き直しをした中に、「近松物語」があり、今一度見直したところ、なんと主演の長谷川一夫が仮張板から掛軸をはずし、裏摺りする場面があるではありませんか!後にも先にも映画にこんな光景が映るなんてありえないので喜んでしまいました。
ストーリーは大経師のもとで働く茂兵衛と主人の妻との不倫騒動で、近松門左衛門が江戸初期の実話をもとに浄瑠璃にした「大経師昔暦」をもとに、溝口健二監督、長谷川一夫、香川京子で1951年に上映された名作です。ストーリー展開といい、カメラワークといい、主演二人の演技といい、フランスの名画に劣らない出来です。黒澤や小津以外にも素晴らしい監督がいたのです。さてそこで気になるのが原作にも表具の場面があるかということです。浄瑠璃本「大経師昔暦」を調べたところ、それらしい場面が出てきません。これは監督か、シナリオの依田義賢がいれた創作のようです。なお西鶴も同じ実話から「好色五人女」を書いていますが、茂兵衛は呉服屋の手代で大経師に出向中の身分。表具のひょの字も出てきません。
さてでは大経師とはなにもの?今日でも表具師の事を経師屋と呼ぶところもあります。これはもともと表具の原点が、奈良時代から始まった仏教の経典を巻物にするところから始まっています。中世では巻物や和本を作る経師と、掛軸を作る表背(ひょうほえ)師、襖や障子を作る建具師などに分かれていたと思われますが、近世以降それらを合わせて経師と呼ばれ、そのなかでもビッグ企業になったのが大経師と呼ばれました。これは近世暦の販売を一手引き受けた一部の経師が巨大化したようです。
悲恋物語としてのおさん茂兵衛は刑場の露と消えますが、原典では最後助けられています。映画での馬上に背中合わせに縛られた二人の互いに手をとり、満ち足りた姿は素晴らしいエンディングになっています。(付けたし:舞台は京の室町通、我が家の近くで起こった話だそうです。これも縁)(04/10/5)
夏秋徒然草 19 古糊
2000年10月の夏秋徒然草6で表具の糊について書きましたが、その続きです。表具で使う糊は生麩糊ですが、これは関東地方の呼び方で京都では沈糊(じん糊)と言われています。炊き立てのものを新糊、長期間寝かせて使うものを古糊といいます。この古糊について、二年前国宝修理装こう師連盟の定期研修会で滝沢孝一氏が「接着剤についてー生麩糊ー新糊、古糊」という題で発表されています。そこでびっくり仰天したのは、古糊はダニによって作られるという発見です。新糊が腐敗するとカビが発生します。このカビをダニがせっせせっせと食べます。食べると当然ダニといえども便を出します。その排出物にはカビは発生しません。この黒っぽい排出物が糊の表面を覆って蓋のようになりますと、下の糊は乾燥されずに熟成していくのです。以前いくつか作った古糊のうち、この黒い蓋の出来なかったものは途中で干からびてしまったことがありましたが納得しました。氏は化学者として多くの実験を通して解明に努めておられますが研究途中だそうです。今後の成果を期待したいものです。現在私の古糊の写真が撮れませんので氏の論文から転載させていただきました。(「日本美術品の保存修復と装こう技術」その弐(国宝修理装こう師連盟編))(04/6/6)
夏秋徒然草 18 裏打のすすめ
1982年出版の世界から表装という伝統工芸の世界に飛び込み悪戦苦闘の末、曲がりなりにも何とかやっていけると思っていた時期、日貿出版社から声を掛けていただき、出来た本が「裏打のすすめ」であります。表装を始めたとき、京表具という伝統社会の閉鎖性から教えてもらえず、そうかといって参考書もなく苦心惨憺して覚えた技術を、後進にはもっと早く楽に覚えてもらおうと書きましたが、22年間22版も重ね、今回は改定再販まで出版できたことは望外の喜びです。本書では増補として、歪んで押した落款を裏打で修正する技術を通して小さな補修のしかた、また大きな拓本の張り合わせを通して大きな補修の仕方を、写真とイラストを使って記述しています。また版をB5版にかえ扱いやすくし、前半のイラストや内容の部分も修正し、よりわかりやすい本となりました。以前に購入された方も是非おもとめいただければと思います。購入は綜芸舎HPへ。http://www.ne.jp/asahi/kasyu/taku/kougei.htm(2004/2/18)
夏秋徒然草 17 つぼつぼ
新しき年になりました。平和と繁栄を願って多くの方が元旦初詣に出かけられると思います。ここ京都も参拝客全国ベスト3に入る伏見稲荷大社にお参りする方がひきもきれません。参道の出店では正月用品のほか、定番の焼きすずめ(ちょっとグロテスク)や伏見人形なども並びます。中世、出店では小さなつぼを売ってたのことです。もともと農耕神であるお稲荷さんの土を持ち帰ると豊穣になるとの言い伝えから、土を捏ねて粒粒(つぶつぶ)にして出店で売るようになり、後には土を素焼きの壷にして売ったそうです。小さくて可愛いのと、つぶつぶからもじって「つぼつぼ」になったのでしょう。江戸期に茶懐石でこの壷に料理を入れだすようになり、これをデザインした紋や模様が着物や袱紗等に利用されるようになりました(詳しくは陣内十三子著「食を旅して」参照)。画像はつぼつぼ模様の遠州緞子です。
ところで十年前、私の家から少し下がった(京都では南を下がるといいます)、近くの御所南小学校(旧富有校・最近学校教育で有名)校庭発掘で17世紀の商家後と見られるところから何百もの壷がでてきました。土地を清めたり、井戸の浄化に使われたもので、それこそ「つぼつぼ」です。世界を清めたいものです。(2004/1/1)
夏秋徒然草 16 風帯
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過去現在日本では掛軸といえば大和仕立という、金襴緞子を使った三段表具をさします。上部には風帯という紐状のものがぶら下がっています。作品の上下に付く一文字という金襴でできた裂と同じ材質のものを使います。よく昔から諸書に、風帯はツバメが飛んできて糞をするのを防ぐためだと言われていました。確かに中国ではいにしえ、文人が庭の木の枝に掛軸を掛けて鑑賞している図を見かけますので、ありえないこともないかなと思いますが、本来は装飾の一つだったと思います。 掛軸の始まりは仏様(仏画)を飾るために生まれたといわれています。そこでは荘厳に飾ることが重要なことですから多くのデコレーションが施され、その一つが風帯というわけです。もともとは仏教布教の僧の活動の場所を示す旗指物であった幡(旗)が後には仏像の両脇やお堂の外に立てられるようになり、その旗の上部の両側にぶら下がる装飾が仏画を飾る掛軸につけられたと思います。掛軸が仏画以外にも書や絵を対象にするようになっても、飾りの風帯は残ったのです。 写真は奈良法隆寺三重塔の屋根の下に懸かる風鐸の下につけた幡。特別な行事に行なわれた珍しい風景です。正倉院には300年ごろの古代の幡が残り、織り、染め、デザインといった古代の文化情報を我々に伝えてくれます。 幡はインドのサンスクリットのパターカーが語源で波太から来ています。 風帯の作り方は日本表装研究会会誌「ひょうほえ」5号に掲載。(2003.12.01) |
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夏秋徒然草 15 垂直
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掛軸の発生は仏を荘厳に飾る信仰から生まれたといわれています。しかしもう一つの発生は石碑ではないかと考えました。最古の記念碑は秦の始皇帝の業績を称えた「えき山碑」です。その後数千年の歴史の中で碑は無数に建てられ、多くが残っています。世界で縦に書かれる文字は漢字とそこから派生した日本語などわずかです。漢字で書かれた碑は当然縦長になります。おまけに碑文の上下には模様が彫られています。こういった形が掛軸発生につながったのではないでしょうか。アウトドアでは碑に接し、インドアでは掛軸にその形を求めたのではないでしょうか。宋代水墨画が流行っても、極端な縦長の画が生まれるのも、その影響かもわかりません。 中国の文化のキーワードは垂直線と考えた私は、今回の鳩居堂での夏秋・洗山展で垂直線をテーマに掛軸をデザインしてみました。 右の掛軸の本紙は拓本「虎」呉大徴筆、上下の道教の神様の拓本は別の拓本を使用。裂は黒のシケ。 なお呉大徴は中国清朝末期の軍務大臣で日清戦争に負けて非難を浴びた人だが、金石学者で書家として有名。軍人ではなく文人。平和な時代の人だったのですね。 そして会場の飾り付けに、印度のいろんな鈴を沢山ぶら下げてみました。 来訪者のお嬢さんが鈴を鳴らしています。垂直線意識してくれたかな?(2003・6・20) |
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夏秋徒然草 14 幽霊
日曜日夜のサンマのカラクリテレビは高視聴率番組だそうですが、先日の番組の中で、大工の棟梁が小学生1〜2年生の相談を受ける場面で、棟梁が部屋にかかっている掛軸を、見てご覧と言いますが、子供はまったくわかりません。すぐ横にあるだろうといってもわからないのです。その子供にとって掛軸は本人の意識、語彙にないのです。今の若者の何パーセントが掛軸を知っているのか、不安になりました。このままだとあと数十年で掛軸という語彙が消えるかもしれません。
この写真は週刊誌の多くに掲載されている証券会社の広告です。平安貴族の格好をしたタレントの横にあるのですから、掛軸なんでしょうか。でも上に巻かれた掛軸なんて存在しません。巻物でしょう
か。巻物なら横にしなければなりません。タペストリーとしても上に巻くことは無いでしょうね。どうして掛けるのか、上の巻かれている中には何がかかれているのか、全部広げればどれほど長くなるのか。疑問が湧いてきます。強いて想像すれば窓に掛けるスクリーンに見えるのですが。左のようなイラストにすれば落ち着くのですが。如何でしょうか。最近こういった軸もどきに随分出会います。広告って、制作者、広告代理店、広告主、雑誌編集者(この広告は小学館の「週刊ポスト」2002.6.7号 なお例はたまたま目に付いたもので他に意図はありません)の目を通してあるわけですから、多くの人がこれでいいと思っているのでしょうね。もしもこのものが特別な形のものなら、どういうものか出来たら教えていただきたい。もし掛軸を意識しているのなら、あってはならないことです。日本の文化を現在と後世に正しく伝えていくのなら直していただければと思います。どんどん貴重なものが消えていく中で、犬の遠吠えとはいえど吠えていきたいと思います。(2002.7.17)
夏秋徒然草 12 霞床席
お詫びと訂正 夏秋徒然草9「床の間」で違い棚の後ろに軸は掛けられないと申しましたが。ありました。中西先生とイラストレイターにお詫びいたします。大言壮語はつとに戒めるべき事と反省しております。弁解すれば掛軸は山で無ければ意味がないのですが。というのは違い棚を霞と見立てた床ですから。さてこの世にも希な床の間は京都大徳寺山内玉林院にあります。1603年創建のこの寺の床の間は表千家如心斎の好みで鴻池了瑛が建てたもので蓑庵ともども重文に指定されています。この床の間のことを教えてくれたのは表具を教えている奈良の生徒さんで山中さんと増田さんです。有り難う御座いました。さて一見にしかずとおもい拝見しようと思いましたが、未公開のお寺でした。そこで半年待ちやっと京都市が例年行なう非公開文化財特別公開中に先日拝観しました。写真ではわかりませんが、違い棚と壁の間が5pほど開いていて、その間に軸を通していることがわかりました。そしてこの冨士の絵であればこそ、違い棚が霞に見える訳です。やはりウエッジのイラストは変ですネ。(写真は玉林院茶室)。(2002.2.21)
掛軸は茶道と切っても切れない関係です。そのお茶を飲む場所が茶室です。茶室がどうして生まれたかは別にして、茶室って農家、というより庵ですよね。利休のわびさびの行き着いたところが木々に囲まれた隠遁者が住まう庵だったのです。これは中国の文化人も行き着く先が山中の庵に住み、霞を食う仙人になることと同じです。出来ない思いを託したのが山水画で、画の中に自らを置いたのです。この茶室・庵は小屋であります。小屋って言葉から今は物置小屋や山小屋を連想しますが、中世までの日本の建築は80%小屋であったのです。縄文時代の掘立小屋から高床式の建物、寝殿造り、書院造り、今日の和建築と続く日本建築史は本当は支配者の人口や建物数からいったらたった20%の歴史なのです。後80%は掘立小屋の時代から殆ど進歩のない小屋の歴史なのです。支配者が嗜んだ茶道が小屋を茶室に使ったのは擬似的に庶民の世界にはいることでわびさびを体験したかったからでしょうか。さて小屋に思いを馳せたのはなにを隠そう先日送られてきた一冊の本「小屋の力」(ワールドムック310・ワールドフォトプレス刊)によります。本書は小屋をあらゆる面からアプローチしています。書いている方も奈良原一高や黒川紀章、片岡義男、海野弘など48人にのぼり、山ほどの小屋の写真で埋めた電話帳のようなごっつい本です。勿論茶室も出てきます(私とは視点は違いますが)。見ていて飽きないし、読んで面白いし、これでたった3800円なんて。(写真は野村家茶室)。(2001.6.3)
「京都、オトナの修学旅行」(山下祐二×赤瀬川原平著。淡交社刊)は京都を別の視点から紹介したユニークな本ですが、高台寺の項で時雨亭が紹介されています。ここでお二人はこの茶室を東南アジアのニオイと述べておられますが、私が10年まえここを訪れたとき一瞬南方に来たのかと思ったほど衝撃を受けました。こんな茶室もあるんだと利休の茶の深さに感激したものです。そこで再度高台寺を訪れ今一度見学しました。他に例を見ない様式なので断言はできませんが、日本建築には中国からきた北方様式のがっちりした建物と南方の高床式の木材多様の藁葺きの建物が混在していたのではないでしょうか。湿度の高い日本にはこの様式があうように思うのですが、結局低床の建築が主流を占めたのでしょうね。この時雨亭や桂離宮は貴重な建築です。時雨亭のある高台寺は秀吉の菩提を弔うため北政所ねねによって1606年建てられました。伏見城の遺構が多く移され、この時雨亭と回廊で繋がる傘亭も遺構で重要文化財、利休好みといわれていますが、利休が建てたかどうかはわかりません。しかし利休の精神は受け継がれているのではないでしょうか。また「オトナの修学旅行」には御所の桜松が紹介されてました。(ちょっぴり嬉しくなりました)。
さて夏秋徒然草9で床の間のことを述べ、床の間に座ることはあり得ないと言いましたが、一つ例がありました。秀吉が博多の神谷宗湛の茶に招かれたとき、床の間に座ったが、すぐ降りて茶を飲んだとされてます。きわめて希であるから記録に残ったとされていますが、床の間に座ることはまず無いが、希にはあったと訂正しておきます。(2001.5.30)
私は毎月二回京都東京間を往復してます。当然新幹線なのでJR東海の月刊誌「WEDGE」をもらいます。、去年の6月号の記事を紹介して、床の間について考えてみました。記事は万葉学者の中西進氏の「日本人の忘れもの」です。ここで氏は床の間について、ユカは弱いがトコは強いと述べてますが、夏秋徒然草7に書いたように、強い弱いははっきりしていないと思います。分類するとすればどちらかと言えばユカの方が高貴と考えられます。次に床の間は晴れの場所で、昔から殿様はそこに座った。天子や将軍になると一段と高く豪華に作られた。客やあるじが座る聖空間と述べられています。床の間に人が座った記録があるのでしょうか。多分上段の間と間違われているのではないかと思います。そこで床の間について簡単に述べておきます。起源には二説あり、一つは飾り物を置いた板(押し板)が固定化し、持ち上がったと言う説、今ひとつは仏具を置いた床机が低くなり固定化した説です。いずれにしても人は座れません。平安時代から室町時代にかけて日本建築は大きな変化をします。壁を持たない寝殿造りから壁に囲まれた書院造り、言い換えれば南方的な高床式開放的な住居から、北方的閉鎖的な住居です。そこに中国の禅宗様式が入り、茶の儀式が生まれ、その中で掛軸の鑑賞という文化がでてくると、その掛軸をかける場所が必要になります。鎌倉時代はまだ軸はあちこちにかけられていましたが、板もしくはトコを壁と一体化して床の間を生み出し、その壁に掛軸を掛け、トコに花を活け、置物を起き一つの聖なる空間、美術空間を生み出したのです。茶室が生まれてくると床の間はより美的空間になります。江戸時代以降裕福な商人にも書院造りや武家造りを模した和建築が生まれ、それが今日の日本建築となってます。床の間も受け継がれ、小規模ですが存続し客間として使われています。晴れの場ですから、客人は床の間の前に座りもてなされます。床の間の上に座ることはありません。氏の意見では最初は大きな床の間で座れたが、現在は人の代わりに花があり軸がかけられているとのことです。もしもそれが正しいのなら建築史の書き換えが必要です。消えゆく美術空間「床の間」の存続を強く押し進める私としては、雑誌に取り上げられたことはありがたいことですし、日本文化の良さを残そうという姿勢には賛同しますが間違い(と私は思いますが)が定説化されることには危惧を持ちます。なお中に使われたイラストはあまりにも不思議なので載せます。床の間には違い棚が付きますが江戸時代以降といわれてます。違い棚は物を置く棚です。その後ろに掛軸が掛かってますがどのようにして掛けたのでしょうか。(株)ウエツジ 2000年5月25日発行のWEDGE6号79Pのイラスト(Yu Kasamatsu)さんの作品です。なお中西氏は大阪女子大学学長です。今回はとっても固い話になりました。(2001.3.9)
あけましておめでとうございます。21世紀がスタートしましたが、年はじめからいやな事件が相次ぎ、景気の先行きも悪くあまりいいスタートではないようです。私の住むところは京都御所のすぐそばですが、10年ほど前からお正月に見られなくなった風景にたこ揚げがあります。家の中はどうなったのでしょうか。カルタや花札もしなくなったのでしょうね。そういえば双六もほとんど死語に近くなったのではないでしょうか。小さいとき雑誌の正月号の付録に必ず双六がついていたのは遠い夢になりました。双六で思い出したのは10年ほど前、私の恩師・寿岳章子先生(お父様の文章先生も師でした)の収集された双六を京都府立大学に寄贈されることになり、修理を仰せつかりました。明治、大正、昭和の物が中心でしたが、双六はもともと折って終ってある物ですから、ほとんどの物の折れ目に破れがあり、またはその直前でした。補修して裏打ちし納めました。ところが一部セロハンテープで破れを補修してある物があり、これには往生しました。セロハンテープは大発明でしたが、長期保存には向かないものです。長年のうちに本体の紙まで劣化させてしまいます。そしていざ剥がすときは本体に傷を付ける恐れがあります。どうか将来に残す物は紙で、特に和紙で、糊は澱粉糊(なければご飯粒でもよい)で繕ってください。今回双六を取り上げたのは、双六のホームページとリンクしたからです。私の東京の表装教室の生徒さんの上司の方のホームページです。日本で唯一の双六ページです。掛軸も屏風もそうですが、日本にはまだまだなくしたくない物や行事があります。そういった物がなくなれば日本らしさも消えていくでしょう。21世紀はもっとグローバルになるでしょうが、日本はもっと個を出して日本らしさを出さないと埋没してしまいます。単なる復古主義や国粋主義でなくて、日本の素晴らしい伝統や心を、未来に継承したい物です。(2001.1.14)
床は「とこ」と「ゆか」、「しょう」と三つも読み方があり、少し意味も違います。とこは万葉集にその語が出てきますがベッドを指しています。とこはところからきたようです。ゆかもベッドを示す意味で日本書紀にでてきますが高貴な方に使われています。奥ゆかしいの語源でしょうか。「とこ」は弥生時代の高床式住居にすでに現れていますが、高床はゆかでおまけにベッドではなくフロア−を示す言葉です。このように後代には床は部屋のゆかを示し、夏の京都の鴨川に料理屋からはみ出した臨時建造物は「ゆか」でした。江戸時代こういった天井を持たない店を「床店」といいました。髪結いがこういった場所で営業していたので「床屋」。でも「ゆかや」でなく「とこや」?なんやよーわからへん。ちょっと本題から外れました。さて床は中国では「牀」(しょう)で床は俗字でした。意味は座ったり寝たりする台を示します。夏の夕涼みに座った竹の牀机(床机)、懐かしいですね。日本最古のベッドは正倉院にあり、御牀と呼ばれています。上代土台状のベッドをとこ、木製のものをゆかといった感じです。(2000.12.6)
表装用接着材としては古来、正麩糊が使われてきました。正麩糊(沈糊)は中世以前は米粉、以降は小麦粉の澱粉質を抽出して、煮られたものです。作品を傷めない、柔らかく仕上がる、剥がし易いなど多くの長所を持つため何百年にわたり使われ、今日に至っています。特にこの糊を腐らせて腐敗が止まった段階で使う古糊は糊の高級ワインといわれるものです。表具特に掛軸は巻ほどきをするため柔軟さが要求されます。それに答えるには裏打紙を薄くすることと、薄い糊を使わなければなりません。接着乾燥後本紙と裏打紙を無理に引っ張れば何とか剥がれるぐらいの接着が丁度良い強度です。作品には炊きたての糊(新糊)に水を加え薄めた水糊を使います。ところが軸に仕立てて全体を裏打ちする総裏(上裏)でおなじ水糊を使うと作品が剥がれたり、表紙にシミが出たりします。また仕上がりも硬くなります。粘着力を無くして水分を減らした糊・古糊を使えばそういったことが解決できたわけです。古糊は新糊の粘着力をなくすため、一年以上かけて腐敗させ、腐らなくなってから使用します。京都の表具屋では十年十五年たつ古糊を持たれるところがザラです。東京大空襲のとき東京の老舗の表具屋は糊壺だけを持って逃げた方があったそうです。それほど表具屋にとっては宝です。この糊は管理と場所の関係から誰でもが持てるわけではありません。そこで最近は表具用化学糊が使われるようになりました。また正麩糊も防腐剤の入ったものや、水を活性かした糊が生まれています。作品には沈糊、総裏には化学糊と使い分けをしていけばよいでしょう。(2000.10.31)
掛軸が今のような形になったのは中世 千利休の頃といわれています。もともとは仏様を荘厳に飾る形態としての掛軸が、絵画や書の表装としても使われるようになると飾りを削ぎ落として、大和仕立といわれる形に定着し今日にいたっています。最近は床の間の無い家も増えましたが、かってはほとんどの家に狭くても床の間があり、丸山応挙ではないにしても、誰かのかいた画や書の掛軸が掛かっていました。中年以上の人はその形が脳にインプットされていますが、若い人はそうでないのでしょう。多分若い人がかかわる最近のマスコミの雑誌や新聞のイラストや広告の中で登場する掛軸に間違いが多々見受けられるようになりました。将来誤った形がいわゆる定説になったら恐ろしいと思い、これからは気がつけば誤りを指摘していこうと思うようになり、その第一弾として・・・。「AERA」(00.7.24号76P)を取り上げました。本文の「メールでお見合いを」記事の伝統的なお見合いのイラストに掛かる掛軸の吊る紐の位置が両サイドぎりぎりについています。本来は三等分か、三等分より少し外目に付けるのが正しい位置です。両サイドにつける掛軸は見たことがありません。「AERA」にはメールで指摘しておきました。(2000.9.30)
先日の新聞で若い子の間で金銀糸入りの服が流行っているので京都市の南にある城陽の金糸工場がフル稼働しているとの記事がありました。久々の活況だが一時の流行にすぎないと地元は思っています。全国の金銀糸のほとんどを生産してきたこの地も工場は最盛期の半分だそうです。さて表具に使われる裂(布)は金襴、緞子がほとんどです。特に金襴は作品の上下(一文字)や垂れる飾り(風帯)に使われ、重要で高価なものです。服に使われる金銀糸は今は糸にアルミ箔を焼着したもので本金ではありませんが、表具では今も極薄の金箔をやはり極薄の和紙で裏打ちし、巾1oほどに裁断した金糸を横糸とし西陣で織られています。30p1万円を超す高価なものです。特に仏画の掛軸は総金襴ですから高価になるのでまがいの箔を使うこともあります。表具の布にしても紙にしても、高価であることや、技術的に難しいことから、需要が減り、生産が減り、そのためそれを作る技術者が減っています。一度途絶えた技術は再興はほとんど不可能です。機を織る人が現れても金糸の裏打ちが出来る人がいるとは限りません。伝統技術はこのように多くの人の支えの中で生き続いています。私も伝統を守るため高くてもいい物を使う努力をしています。(蛇足:私の姉の嫁ぎ先は金糸屋どしたが今ではラッピングの金の紐を商っとります)。(2000.8.20)
祇園祭の終わった京都は八月大文字の送り火で夏も終わります。時々大文字焼きと言う輩がいますが、もんじゃ焼きじゃあるまいし、そんなこと言わんといとくれやす。ところで表具の布(裂)に「山々」という柄があります。また茶道で使う屏風(風炉先屏風)では山々の模様が定番ですが、この山は京都の東山を描いたものではないでしょうか。この柄の布は主に金襴にあります。金襴は「金襴緞子の帯しめて・・・」の金襴で、京都西陣(因みに我家も西陣の一角)で織られています。経糸が絹で、緯糸が金糸です。金糸といっても糸ではなく、金箔を和紙で裏打ちして糸ほどに細く切って織られています。掛軸では主に一文字に使われます。一文字???これは掛軸の作品の上下に細くつくものです。その外を緞子が廻ります。これってなんと読みます。イチモジ? 違います。イチモンジです。大文字をダイモジでなくダイモンジと読むのと同じです。京都どすなー。(2000.8.5)
文月16日 この日は京都祇園祭宵山です。京男(私は最高のカップルは東女に京男と思ってます)である私の祭り日です。祇園祭は別名「屏風祭」といわれるほど、町々の商家の表の部屋に屏風を並べ、祭りを盛り上げる催しでもあります。もともと京都の家は間口が狭く、奥行きの深い、うなぎの寝床といわれ、また個人の生活を覗かれないように、店は表に、居住空間は中庭を夾んで奥になっていました。それが一年一回個人の生活がかいま見える一瞬がこの日です。ちょっと自慢もしたかったのでしょうね。最近は町中の商家もビルになり、格子越しに屏風を見る風情も無くなり、屏風祭の看板を下ろさなければならないようです。
ついでですが京都の表具屋の仕事場は家の一番奥にあり、他人には見せないところで作業します。それに対して東京の表具師は表の部屋が作業場というのが多いようです。これって京都の表具屋が閉鎖的で、東京の表具師が開放的だともいえますが、京都の表具屋の預かる作品が高価で表では危ないので奥でしたともいえます。(2000.7.15
夏秋徒然草 1 オープン
シニアになったおじさんが悪戦苦闘の末、やっとホームページを立ち上げました。若いときから物を作るのが大好き人間でしたから、ホームページも物作りと思って何とか出来た次第です。自分の作品や頼まれた作品を表装するかたわら、東京や大阪を中心に多くの人に掛軸や屏風の作り方を教えています。消えかけようとしている技術を何とか残したく頑張っています。ご意見ご感想のメールお待ちしています。次回から表装の話いろいろしていきます。(2000.7.7)